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Kudezign

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著者:Alan Lee (アラン) 

初版:2023年7月アマソン ebook  
第二版:2026年6 月 ウェブ版 

 

表紙のイラストについて

この本の表紙のイラストは、私が毎日通学の際に通りかかる福岡市の渡辺通りとサリーの交差点に基づいています。

何故この場所を選んだかというと、何となくこの交差点が私にとても懐かしい感情を呼び起こします。初めてこの場所を訪れたときから、なぜか子供の頃に訪れたかのような感覚を覚えました。毎回ここを通るたびに、その複雑な感情が湧き上がります。

それが表紙のイラストを描くインスピレーションの源になりました。

序章

「日本で留学するなんで、全然思わなかった」。

あれよあれよという間に、40代に突入してしまった。香港で自分だけのマンションを持ち、車も手に入れ、何不自由なく生活していました。

だからこそ、日本で留学するという考えは、僕の夢にすら浮かばなかった。では、何故その平凡なオジサンが、わざわざ日本語を勉強するために、日本に留学したのでしょうか?

僕の物語は、それは2018年から始まります。

物語はここから始まります。元々、私たちはオーストラリアに移住する計画を立てていました。妻が留学ビザで行き、その後でワークビザに変更、その後、私もそこへ行く、これが元々の計画でした。その夜、車の中で、この会話が生まれ、生涯の計画が決まったのです。

その後も、私たちの日常生活は平凡に流れ続けました。いつも通り仕事に出かけ、自分の趣味に没頭しながら毎日を過ごしていました。「日本へ留学する」という話は、まるで別世界の出来事のようで、まったく想像もつきませんでした。

日々はゆっくりと、しかし着実に過ぎていきました。朝は目覚まし時計に起こされ、朝食を食べて仕事へ向かいます。仕事から帰れば、好きな音楽を聴きながら夕食を楽しみ、週末は趣味に没頭する。それが私たちの日常であり、何も変わることのない生活でした。

これは、2018年末から2020年初頭までの私たちの普通の生活でした。オーストラリアへの移住計画は、まるで遠い未来の話のようで、日本へ留学するなどという考えはまったく頭に浮かびませんでした。

かっての職場、残業が続く日々の風景です。

酔っ払っている同僚。楽しいひと時でした。

そして2020年、世界は新型コロナウイルスによって大きく揺れ動きました。

私と妻はオーストラリアへ渡り、彼女の生活が落ち着いた後、私は香港へ戻りました。しかし、その直後、コロナが世界中で流行し始めました。

マスクは入手困難となり、人々は長い列に並んで買い求めました。やがて消毒液までもが品薄となり、社会全体が不安に包まれていきました。

街からは人の姿が消え、笑い声も聞こえなくなりました。感染者数や死亡者数を伝えるニュースが連日流れ、当たり前だった日常は一変しました。

次々と変わるルールや生活様式に戸惑いながらも、私たちは目の前の毎日を生き抜くことに精一杯でした。

そんな状況の中、日本へ留学するなどという考えは、私の頭にはまったくありませんでした

これは、2020年のコロナ禍中の私の姿です。私の後ろにあるダンボールは、同僚との間に安全を確保するための「盾」のような役割を果たしています。

これが私の浴室の収納です。アルコールを爆買いました。

2020年の3月から4月にかけて、皆が恐怖とともにマスクを爆買いした。そのとき私も3年間使えるほど、つまり1,500枚以上のマスクを爆買いした。

私が当時働いていたのはイベント企画会社でした。しかし、コロナ禍の影響で世界中のイベントが次々と中止となり、業界全体が大きな打撃を受けました。私たちにとって、それはまさに最悪の状況でした。

やがて会社では在宅勤務が導入され、働き方も大きく変わりました。しかし、環境が変わっても不安が消えることはありませんでした。

収入の減少や感染への不安を抱えながら、私たちは毎日を過ごしていました。かつて活気にあふれていた職場は閑散とし、当たり前だった日常は大きく変わってしまいました。

この経験を通して、どんな状況でも生きていける力や専門的なスキルを身につけることの大切さを改めて実感しました。しかし、世界がここまで変わるとは、誰も想像していなかったでしょう。

先の見えない日々が続く中、明日への不安は常に心の中にありました。

2020年、多くの店が閉店したり営業時間も短縮したりしていました。

毎日、家で仕事をし、買い物のためにスーパーへ行っては家に戻る。そんな単調な日々が続いていました。

パソコンの前で過ごす時間は増え、46階の窓から見下ろす景色もいつも同じでした。目に入るのは通りを行き交う車ばかりで、変化のない毎日に退屈さを感じていました。

食事の準備や洗濯、掃除といった家事も、毎日繰り返すうちにただのルーティンになっていました。

これは私の在宅勤務の風景。窓からは46階からの景色が見えます。

そして、運命の日がやってきたのです。

2020年8月中旬のある日、私は不思議な体験をしました。眠っている最中、突然、はっきりとした声が聞こえたのです。

「お前!今こそ日本へ留学する絶好のチャンスだぞ!」

夢とは思えないほど現実感のある声でした!まるで誰かが耳元で語りかけているようで、その瞬間、私は飛び起きました。

気がつくと全身は冷や汗でびっしょりと濡れていました。何が起きたのか理解できず、ただ驚きと戸惑いで胸がいっぱいでした。

これまでの人生で経験したことのない、本当に不思議な出来事でした

そもそも、私は夢を追いかけるタイプの人間ではありませんでした。

それに、なぜ突然、日本語だったのでしょうか。

30代前半の頃に日本語の教材を買ったことはありました。しかし、それらはすぐに本棚の隅に置かれたままとなり、その後は長い間、まったく開かれることもなく埃をかぶっていました。

当時は単なる興味に過ぎず、本気で日本語を学ぼうなどとは考えていませんでした。

それなのに、なぜ今になってあの不思議な声を聞いたのでしょうか。まるで天からのお告げのような出来事でした。

その意味は、今になっても分からないままです。

急に目を覚ました私は、深夜にもかかわらず、すぐにパソコンを立ち上げました。

日本へ留学するための条件や手続き、必要な書類について調べ始めると、気がつけば一晩中インターネットを見続けていました。画面には次々と留学関連のウェブサイトや掲示板が表示され、私は夢中になって情報を集めていました。

夜が明ける頃には、頭の中は留学に関する情報でいっぱいになっていました。どの日本語学校が自分に合っているのか、どの都市で学ぶべきなのか、どのようなビザが必要なのか――。その晩だけで、私は数え切れないほどの情報に目を通していたのです。

今振り返ってみると、あの夜の私は、まるで何かに導かれていたかのようでした。

しかし、日本への留学は思っていたほど簡単なものではありませんでした。

調べれば調べるほど、留学に必要な条件が見えてきました。ほとんどの日本語学校では、少なくともJLPT N5レベルの日本語能力が求められていました。また、それを証明できない場合は、認定機関による150時間以上の日本語学習証明書が必要でした。

しかし当時の私は、そのどちらも持っていませんでした。

そこで私は、まず香港で日本語学校を探すことにしました。そして、日本へ行く前に必要な条件を満たせるよう、日本語の勉強を始めることにしたのです。

最初に私が訪れたのは「大東日本語教育センター」でした。しかし、残念ながらクラスはすでに満席で、次の開講は翌年の1月になると言われました。それでは遅すぎました。

次に「漢科学校」を訪ねましたが、こちらのクラスはすでに3週間前に始まっていました。途中参加を希望する場合はレベルチェックテストを受ける必要があるとのことでした。

しかし当時の私は、まだひらがなも十分に読めないレベルでした。当然、レベルチェックテストを受けられるような実力はありませんでした。

何ともタイミングが悪い!

そして、ついに最後の希望となったのがパソナエデュケーションでした。

幸いにも申し込み期限には間に合い、無事に受講できることになりました。パソナでは週4回のレッスンが行われており、授業時間は午前10時から午後1時までの3時間。このペースであれば、3か月で留学に必要な150時間の学習時間を何とか満たせる計算でした。

手続きも順調に進み、こうして私の日本語学習の旅は、パソナから始まったのです。

本当に一から学びました!これはレッスンの最初の日にもらったひらがなとカタカナの書き取り練習帳でした!

パソナでは、本当に必死に日本語を勉強しました。そして、私はパソナの授業スタイルをとても気に入りました。

授業ではアクティビティを通じて日本語を学び、日本語を話す機会も数多くありました。そのため、授業中に退屈を感じることはほとんどありませんでした。

今振り返ると、日本語学習の第一歩をパソナで踏み出せたことは、とても幸運だったと思います。一般的な文法中心の授業ではなく、実際に使いながら学ぶ環境だったからです。

放課後は、日本のドラマを観ることに多くの時間を費やしました。

日本語字幕と中国語字幕を表示しながら視聴し、分からない言葉や表現が出てくるたびに動画を止めて意味を調べました。40分のドラマを観るのに3時間以上かかることも珍しくありませんでした。

しかし、この学習方法が私に大きな変化をもたらしました。毎日のように新しい語彙や文法に触れ、日本語への理解が少しずつ深まっていったのです。

分からないことばかりで苦労の連続でしたが、その一つひとつが自分の成長につながっていると実感していました。

パソナでの日常

こうして、ようやく150時間の学習時間を達成し、修了証を手に入れることができました。

これで留学エージェントに相談し、日本の学校選びや出願手続きを進めることができます。

当時の私は、まるでゲームの最初のステージをクリアしたような達成感に包まれていました。修了証を手にしたことで、ようやく日本留学へのスタートラインに立てた気がしたのです。

この先どんな経験が待っているのか。期待と不安を胸に、私は次の一歩を踏み出そうとしていました。

私は留学エージェントとして「HELLOJAPAN」を選び、進学先には福岡にある「福岡YMCA日本語学校」を選びました。

理由はいくつかありました。

まず、以前から九州の落ち着いた雰囲気に魅力を感じていたことです。また、東京や大阪といった大都市に比べて生活費が比較的安いことも大きな理由でした。

そしてもう一つ、福岡には会いたい人がいました。

こうした理由が重なり、私は福岡YMCA日本語学校への進学を決めたのです。

2021年7月4日、私は初めて日本語能力試験(JLPT)N4を受験しました。

日本語の勉強を始めてから約8か月が経っており、結果は無事に合格。その成功は大きな自信となり、さらに勉強を続ける原動力になりました。

そして同年12月、日本語学習を始めてから1年以上が経った頃、今度はN3に挑戦しました。努力の成果もあり、こちらも無事に合格することができました。

N4、そしてN3への合格は、日本留学という目標に一歩ずつ近づいていることを実感させてくれました。

しかし当時、コロナ禍の影響で外国人の入国を厳しく制限していました。留学の準備は整っていても、私にできることは日本の国境が再び開かれるのを待つことだけでした。

日本留学という夢を実現するため、私はその日が来るのを信じて待ち続けました。

2020年12月に予定されていたJLPTは、コロナ禍の影響で中止となりました。

そのため、2021年7月のN4試験当日は、多くの受験者が試験会場に集まり、会場の外には長蛇の列ができていました。試験開始前から、私はこれほど多くの人が日本語を学んでいることに驚かされたのを覚えています。

しかし、予想外の事態が起こりました。

2021年11月下旬、コロナのオミクロン株の出現を受け、日本政府は外国人の新規入国を一時的に全面停止しました。

これは、私たちのように海外からの留学を予定していた人たちにとって、大きな打撃でした。

まるで目の前にあった夢が突然遠のいてしまったかのようで、私は深い失望と焦りを感じました。

それに伴い、福岡YMCAの授業もオンラインで実施せざるを得なくなりました。

本来であれば現地で学ぶ予定だった私たちですが、コロナ禍によってその機会を奪われてしまいました。しかし、それでも諦めることなく、自宅から日本語の勉強を続けました。

期待していた留学生活とは異なる形になってしまいましたが、学習を止めることはありませんでした。

そして福岡YMCAも、私たちが学び続けられるようオンライン授業を提供し続けてくれたのです。

福岡YMCAでのオンライン学習中の私の様子。その時、Mac Mini M1と二つのモニター、iPad Pro 11インチ、そしてiPad Mini をフル活用して、紙を一切使わずにペーパーレスで学習していました。」

そして、ついにその日がやって来ました。

長い間閉ざされていた日本の国境が再び開かれ、私たちはようやく日本へ渡ることができるようになったのです。

これまでの準備や努力、そして先の見えない待ち時間。そのすべてが報われる瞬間でした。

コロナ禍によって何度も計画を狂わされ、そのたびに失望も味わいました。それでも諦めずに待ち続けたからこそ、この日を迎えることができたのだと思います。

こうして、私たちの新しい旅が始まりました。

夢だった日本留学は、ついに現実となったのです。

2022年4月、14時の香港空港!誰もいない空間はまるで夢のようでした。

こうして、私の特別な学生生活が始まりました。

日本での暮らしは、何もかもが新鮮でした。市役所での各種手続きや銀行口座の開設、携帯電話の契約など、すべて自分の力で進めなければなりません。

一年半にわたって学んできた日本語を、実際の生活の中で使う機会がようやく訪れたのです。

これから先も、さまざまな困難や挑戦が待っていることでしょう。しかし、それ以上に期待の気持ちで胸がいっぱいでした。

一つひとつの経験が新しい学びとなり、日本で生活していることを日々実感していました。

私の住んでいる地区の区役所。

私が銀行で口座を開設している姿。

光武さん、なおみさんには感謝してもしきれません。

お二人は新幹線のホームで、忘れられない別れの時間を作ってくださいました。

その温かい心遣いと優しさは、今でも私の心に深く刻まれています。

そして、ふと振り返ってみると、私の人生は大きく変わっていました。

2018年当時、私はまったく別の未来を思い描いていました。しかし、現実は計画通りには進きませんでした。コロナの流行、そしてあの不思議な声との出会い。予想もしなかった出来事が重なり、私の人生は思いもよらない方向へ進んでいったのです。

けれども、その変化は私の人生をより豊かで、かけがえのないものにしてくれました。

皆さんは、自分の人生を変えることができると思いますか。

私はできると思います。年齢は関係ありません。いつからでも、新しい一歩を踏み出すことはできます。

人生は予測できないものです。思い描いた通りにならないことも少なくありません。しかし、だからこそ新しい出会いや可能性が生まれ、自分でも想像していなかった未来へとつながっていくのだと思います。

私の経験が、誰かの背中を押すきっかけになれば幸いです。

これからも人生にはさまざまな困難や挑戦が待っているでしょう。それでも私たちは前へ進み続けます。

そして、その道が自分で選んだものであるならば、その旅はきっと美しいものになるはずです。

さあ、あなたも新しい一歩を踏み出してみませんか? 未来は、その一歩の先にあります。